『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の年』×南寺


『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 これを読んだすぐ後に直島の家プロジェクの一つである、南寺の光のアートにいったこともあって、妙にこの二つがリンクしました。 光と影があるように、人生にも闇の部分がある。そして、闇の中に光を見出す事で人生が彩られる事もある。 光の中にいると、自分が何者であるかという事に向き合わず、まわりの環境が当たり前かのように見えてしまう。 光にいようが影にいようがそもそもそれは現象でしかない。 光に、影に隠された真実を心の目で見つめること。


南寺にはジェームズタレルが作った光のアートが存在します。光のアートと言っても真っ暗な部屋の中に時間が経つと微弱な光のスクリーンのようなものが見えてくるという、口で説明してしまえばそれまでですが、その短い行程の中に生きる本質のような体験をしました。


最初は真っ暗闇でなにも見えず恐怖や不安があり、それに伴い一歩もそこから動けなかった。(生まれてからこのかたあんな真っ暗闇の空間に入った事はない) しかし、時間が経つにつれて(3~4分)ぼんやりとスクリーンのようなうすーい明かりが前方に見え、多少ではあるが距離感やまわりの人のシルエットまでは見えるようになり前へ進む事ができた。そして、そのスクリーンには奥行きのある空洞になっていて、ある種の光が生み出す空間という事が分かり、その幻想的な雰囲気に心を奪われ感動した。


なにが言いたいかというと、ここにある真実は『微弱の光の空間』が僕達が入った時から、いやむしろ常にその状態を保っていたということ。それ以上でもそれ以下でもない。 この5分くらいの体験は人生そのものだと思った。 つまり、目の前に起きた現象、体験(真っ暗闇)の真実を見る前に自分の都合の良いように認知して、行動(恐怖、不安)してしまう。 そして、最終的にはこの体験で僕は感動すらしてしまっているわけだから、真実を見る心の目を磨くことで、自分の幸福は自分で作り出せるということを知った。 これらの体験と『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の』を読んだ内容が偶然リンクし、知識と実践がマッチした貴重な経験でした。




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